小さいころは漫画『ドラえもん』が大好きだったのに、背伸びしたくなる思春期の初めに自然と読まなくなりました。ある種の通過儀礼として、誰に言われるまでもなく児童向けのものから卒業したのです。
それからずいぶん経ったある日、ふとしたきっかけで漫画『ドラえもん』を読み返したところ、雷に打たれたようにしびれました。そう、「なにこれやばい、面白すぎる!」と興奮で頭に血が上るほど面白かったのです。
ノスタルジーでは断じてありません。なにせそのとき手にしたのは幸運にもあの(あの!)「きこりの泉」が収録されている第36巻だったのですから。むしろ心のどこかで「しょせん子供向け」と軽んじていた自分の目を覚まされた思いです。
最高の形で漫画『ドラえもん』と再会を果した勢いで「全巻そろえよう」とまで決心しました。そればかりか、ついには当サイト『もしも道具』を立ち上げるまでに至りました。
その名のとおり「ひみつ道具をもらったらどうするか」を考えるサイトですが、本稿ではそれはさておき、おすすめしたい漫画『ドラえもん』の傑作エピソードを第1巻から順にピックアップして紹介します。いやホント面白いんです。
各話の紹介文につきましては、ネタバレしている箇所もあります。
記念すべき第1話です。学習机の引き出しからドラえもんが現れる。この「勉強という(大半の子供にとって)楽しくない日常の象徴である学習机が夢のような非日常と突然つながる」という物語の幕開けがそれはもう素敵で舌を巻きます。
いつか自分の学習机も未来につながるんじゃないかと子供心に期待したものでした。残念ながらうちにドラえもんは来なかったけれど、そのわくわくは今も心の奥に刻まれています。
あらためて読み返すと、ドラえもんが持ってきた未来のアルバムに「ジャイ子との間に6人も子供をもうけたのび太」が写っていて、「ああ見えてのび太ってずいぶんお盛んなんだな」と驚かされたり、大人ならではの再発見もあります。
ドラえもんの体形がずんぐりむっくりしていたり、“タケコプター”が「ヘリトンボ」と呼ばれていたり(現在の版では変更済み)、微妙な違いはあれども、初回でありながら『ドラえもん』という名作漫画のほぼ完成形です。
未来から時を超えてドラえもんがやってきたことから始まった物語なだけあって、連載初期はタイムトラベルものが目立ちます。「ご先祖さまがんばれ」は、のび太よりさらに過去のご先祖様に会うべく、“タイムマシン”で戦国時代を訪れる話です。
見どころは、ご先祖様ののび作にいくさで手柄を上げさせることになったドラえもんとのび太のやり取りです。
『ドラえもん』第1巻「ご先祖さまがんばれ」より
- のび太
- 「どっちのみかたをすればいいの?」
- ドラ
- 「てきとうにやんなよ」
- のび太
- 「正しいほうをたすけなくちゃ」
- ドラ
- 「どっちも、自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ」
ことわざの「勝てば官軍、負ければ賊軍」につうずる「正義はあとからついてくる」という戦争の非条理を、読者にさらりと突きつけます。これを読んで子供のころどう思ったかはもう覚えていません。けれども再読した今、時を超えて刺さります。
こういったシニカルな一面が漫画『ドラえもん』の魅力の一つであり、また藤子・F・不二雄先生の持ち味でもあります。
「プロポーズ作戦」もタイムトラベルものです。タイムマシンで結婚前の両親に会いに行くと二人が別れそうになっていて、ここままだと自分が生まれなくなってしまうと奔走するお話。これって『バック・トゥ・ザ・フューチャー』そっくりです。
名作映画の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に先駆けること10年強、藤子・F・不二雄先生の先見の明が光ります。もちろんスケボーやエレキギターは登場しないけど、その代わりにひみつ道具の“ヒトマネロボット”が活躍します。
本作ではメガネを外しているのにショボショボ目じゃない玉子(のび太のママ)の顔が見られます。これがすごくかわいい! じつは玉子がすごい美人さんなのって、子供のころに読んだことがあっても忘れている人が多いのでは?
そしてラストのコマがグッときます。のび太のパパとママが仲直りして二人で夜空を眺めている姿がなんだかすごく大人な感じ。こうした微妙な空気感を読み取れるのが再読の醍醐味(だいごみ)です。
「テストにアンキパン」は、みなさんご存じ(ですよね?)の“アンキパン”が活躍するお話です。
なにがすごいってこのアンキパン、漫画『ドラえもん』の本編にはこの一回しか登場していないのです。にもかかわらず、こんなに有名になったのは、「食パンに文書を転写して食べると暗記できる」という発想が傑出していたからにほかなりません。
唯一無二の発想とは、それだけ貴重で価値のあるものなのです。そういったひみつ道具をいくつも生み出した藤子・F・不二雄先生にはただただ脱帽させられます。
女の子にまるで相手にされないのび太を不憫に思ったドラえもんが、未来の世界から“トモダチロボット”の“ロボ子”を連れてきたお話が「ロボ子が愛してる」です。
トモダチロボットとは名ばかりで、そのじつコイビトロボットなのは明白です。本作が収録されている第2巻が発行されてから40年余りが経った今、ロボット(人工知能)との恋愛もあながち虚構とはいいきれなくなってきました。
ロボットをパートナーに選ぶ人が珍しくない時代は、そう遠くない未来かもしれません。のび太が一目で虜になったロボ子ほどの美少女ロボットなら、さぞかしモテることでしょう。実際ロボ子はなかなかの人気キャラクターです。
女装したドラえもんがのび太の迫るオチもパンチが効いています。
「ぼくの生まれた日」は、パパとママにこっぴどく叱られて、「自分はこの家の本当の子供ではないのでは?」と疑念を抱いたのび太をドラえもんがタイムマシンで生年月日へ連れていくお話です。
「親の心子知らず」ということわざを地でいくのび太が、自分が生まれたことを手放しに喜んで我が子の将来に思いをはせる両親の姿を見て、赤裸々な親心に触れます。
なんだか説教臭いテーマだけれどそこはシニカルな漫画『ドラえもん』、「親も子も自分勝手にジタバタしている」という狂想曲仕立てです。そんな中、ドラえもんの身も蓋もないキャラが際立ちます。
そしてなんといっても、のび太の名前の由来が語られることが本作のトピックです。
「野比のび太! いい名だろ。名まえの意味? もちろんあるよ。すこやかに大きく、どこまでも、のびてほしいというねがいをこめた名まえだよ」
『ドラえもん』第2巻「ぼくの生まれた日」より
のび助(のび太のパパ)が命名しました。
ドラえもんとのび太が連載を読んでいる漫画『ライオン仮面』は毎回はらはらするところで終わるので、二人はつづきが気になってたまりません。ついに我慢できなくなったドラえもんが来月号を読みにタイムマシンで未来へ行くお話です。
つづきを誰よりも知りたがっている登場人物が、『ライオン仮面』のネタ出しに詰まった作者のフニャコフニャ夫なのが本作の趣向です。「藤子不二雄」をもじった名前の漫画家がネタ出しに七転八倒するのは一種の自虐ネタでしょう。
藤子・F・不二雄先生が「ドラえもん」というキャラクターを生み出したのは連載開始ぎりぎりのときだった、という逸話があります。漫画の神様も人の子です。フニャコフニャ夫のようにワラにもすがる思いになることもあったのでしょう。
タイムトラベルを描きながらも、タイムパラドックスについてはスルーすることの多い『ドラえもん』にしては珍しく、オチでタイムパラドックスを投げかけているのも面白い。
『ドラえもん』の定番ストーリーといえば、ひみつ道具を使って調子に乗ったのび太が痛い目に合う展開です。そんな中この「スケジュールどけい」では珍しくドラえもんがひどい目に遭います。
“スケジュールどけい”とは、事前に設定したスケジュールを強行させる自律型ロボットです。これにドラえもんが一日散々振り回されるのだけど、予定と現実が乖離(かいり)していってシュールな笑いが生まれます。
ただただドラえもんがひどい目に遭うだけの話なのに、なぜだか笑えるから不思議なものです。
のび助(のび太のパパ)が子供のころに学童疎開した先で美しい少女と出逢った思い出話を聞いたドラえもんとのび太が、タイムマシンで当時へ行って、その子の写真を撮ってパパにプレゼントしようとするお話が「白ゆりのような女の子」です。
戦争のにべもない理不尽さがさりげなく描かれています。教科書でしか知らない戦時中の学童疎開が『ドラえもん』という身近な作品でささやかながらも追体験できるのは価値あることでしょう。
重いテーマですが、物語のタッチは軽妙です。オチをいってしまうと、のび助が出逢った「白ゆりのような女の子」とは、“30分できく毛はえぐすり”でロングヘアーになったのび太だったのです。
けれどもそれを茶化さずに、大オチでロマンチックに幕を閉じるのがなんとも温かくて、読後感がしみじみと残ります。
漫画『ドラえもん』第4巻の冒頭を飾る「のろいのカメラ」は、薄ら怖いお話です。なにせこの“のろいのカメラ”、ただひたすらに人を痛めつけるためだけにあるひみつ道具なのですから。
ドラえもんも「悪魔の発明」だと恐れるこんな物騒な代物をいったいどうして持っていたのでしょうか。たとえドラえもんがどれだけ善人であったとしても、現代に居るには危うい存在であることが透けて見えます。
これほどの存在をなぜタイムパトロールは野放しにしているのか。そういった疑問から『ドラえもん』にまつわる都市伝説が生まれたのでしょう
それはさておき、「人を呪わば穴二つ」とばかりにドラえもんは報いを受けます。けれども藤子・F・不二雄先生はのろいのカメラを完全否定はしません。節度ある使い方を許容するオチをつけています。
真っ黒も、真っ白もない。それが大人になっても漫画『ドラえもん』を楽しめる理由の一つです。
「世界沈没」は、未来の自分の視覚を時を超えて見られるひみつ道具の“イマニ目玉”を使ったのび太が、10時間後に訪れる世界の終わりを見てしまうお話です。
未来予知に世界滅亡にノアの箱舟と、いい具合にオカルトめいていて、「信じるか信じないかはあなた次第」な感じでわくわくさせられます。
緊張と緩和を行き来しながらぐいぐい引っ張っていく話の運びがお見事。オチもいい意味でくだらなくて最高です。
「この帽子をかぶると、道端に落ちている石ころのように誰からも目を留められなくなる」というひみつ道具の“石ころぼうし”をのび太が使うお話です。
本作はストーリーがどうこう以前に、この石ころぼうしの存在が子供心に深く刻まれました。子供のころは「あれもダメ、これもダメ」と不自由だったなぁと、大人になった今だからこそ、あらためて身に染みます。
子供ながらに人目から解放されたがっていたのでしょう。藤子・F・不二雄先生は、そういった子供心をくみ取るのにたけていたから、『ドラえもん』をはじめとする魅力的な作品群が描けたのでしょう。
のび太が幼稚園のころに亡くなったおばあちゃんを思い出してたまらなく寂しくなって、タイムマシンで生前の時代へさかのぼって会いに行くお話が「おばあちゃんのおもいで」です。
エピソードタイトルから連想されるとおりの感動ものですが、よくある軽薄なお涙頂戴ドラマとは一線を画しています。
おばあちゃんはタイムトラベルを理解できないだろう、そうドラえもんはのび太に忠告しました。でもおばあちゃんは、時を超えて会いに来た未来ののび太をありのままに受け入れたのです。
おばあちゃんののび太を信じる力、その想いの強さが胸を打ちます。自分の絶対的な味方であってくれる人の存在は、なにものにも代えがたい。おばあちゃんは亡くなった後も、のび太の支えとなっているはずです。
時を超えていろいろな時代の自分たちが一堂に会する。このテーマが藤子・F・不二雄先生はお気に入りだったようで、著作でいくたびも描きました。その一つが「ドラえもんだらけ」です。
本作では文字どおりドラえもんだらけになります。一度寝たらなにがあっても目が覚めないのび太、しだいに狂気を帯びていくドラえもん……。とにかく出色の出来栄えで、藤子・F・不二雄先生の演出力と構成力がさえわたる傑作中の傑作です。
さて、藤子・F・不二雄先生は、青年漫画誌の『ビッグコミック』やサイエンス・フィクション専門誌の『S-Fマガジン』に通称『藤子・F・不二雄のSF短編』シリーズを発表していました。掲載誌からわかるとおり、大人向けの漫画です。
その中の一編「自分会議」は、本作と同じテーマの作品でありながら、より赤裸々で、よりダークな読み切り短編です。もしも児童向けの藤子・F・不二雄作品しか知らないのなら、『藤子・F・不二雄のSF短編』シリーズは必読です。
「地底の国探険」はドラミちゃんが活躍するお話です。ドラえもんの役回りをドラミちゃんが代わりに務める回は、当初は外伝作品『ドラミちゃん』として発表されたこともあって、本編とは少し毛色が違います。
大長編『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』の下敷きとなった「海底ハイキング」をはじめとして、『ドラミちゃん』は冒険色が強めです。「地底の国探険」も15ページ(+扉絵)の読み切りながらスケールの大きい冒険ものになっています。
のび太が未来のダウジング用具“ここほれワイヤー”で地下都市らしきものを発見し、真相を確かめるべく“地底探検車”でそこへ向かいます。冒険のエッセンスがぎゅっと詰まった傑作です。
2学期が始まる朝。のび太は寝坊もせず、夏休みの宿題も終わらせてあるばかりか、登校するまでの時間に予習を始めます。その様子を見ていたドラえもんは、のび太のくせに調子よくいきすぎだ、これは夢なんじゃないかと言い出しました……。
という出だしの「うつつまくら」は、『ドラえもん』の中でも異色作です。夢と現実を取り換えるひみつ道具の“うつつまくら”が波乱を巻き起こします。
「どこまでが夢で、どこからが現実なのか」というテーマの物語は、それこそ掃いて捨てるほどあります。しかし本作を収録した漫画『ドラえもん』第5巻が発行された1974年には、まだ新規性が残っていたのではないでしょうか。
すくなくとも本作は、このテーマに初めて触れる物語として申し分のない傑作であることは間違いありません。
戦時中のお話が『ドラえもん』にはいくつかあります。連載が始まったのは終戦から24年が経った1969年。終戦後に生まれた子供たちに、戦争の記憶を継承する役割の一端を担う心積もりが藤子・F・不二雄先生にはあったのかもしれません。
「ぞうとおじさん」は、戦時中に上野動物園で行われた猛獣処分をモチーフにしたお話です。「処分」とは名ばかりの虐殺を迫る軍人からゾウを守るべく、ドラえもんとのび太が奮闘します。
もちろん『ドラえもん』ですから、説教臭いお話ではありません。のび郎おじさんとゾウのハナ夫との幻想的な邂逅(かいこう)が印象深い活劇です。
ちなみに本作は、定番ひみつ道具の“スモールライト”が初登場したという記念的な一面も持ち合わせています。
「赤いくつの女の子」は、幼稚園のころののび太と、隣に住んでいたノンちゃんとの小さな恋のお話です。童謡『赤い靴』をモチーフとしています。
童謡『赤い靴』 - キッズボンボン
たぶんのび太の初恋でしょう。けれどもそれは、さよならもできずにノンちゃんが外国へ引っ越してしまった、ほろ苦い思い出でした。
「人目を気にするあまり虚勢を張って、本心とは違う言動をとってしまう」という定番の展開ではあるけれど、のび太の心根の優しさが伝わる本作は、『ドラえもん』ファンなら一度は読みたい佳作です。
ちなみに本作では、“タイムふろしき”を使えば、記憶と精神はそのままに肉体だけを若返らせることが可能だと判明します。「もしもひみつ道具を一つだけもらえるとしたら」を考える上で資料的価値のある回でもあります。
「エースキャップ」は、かぶるだけで名投手になれるひみつ道具の“エースキャップ”を描く、わずか5ページのショートコメディです。
コマ割りで間を、擬音とセリフで空気を、キャラクターの表情で味わいを、それぞれ生み出す。この藤子・F・不二雄先生の「漫画力」が光るラスト2コマが秀逸です。なんてことのない小品なのに、思わず笑ってしまいます。
しずかちゃんが卵から育てた小鳥がよく懐いているのを見て、自分もなにか卵から育てたくなったのび太のために、ドラえもんが“四次元ポケット”から取り出した卵は、こともあろうに“台風のたまご”だった、というお話が「台風のフー子」です。
生きものを飼うことの難しさや責任、そしてそそいだ愛情の返報性を描いています。
藤子・F・不二雄先生が逝去したのち、本作を原案とした映画『ドラえもん のび太とふしぎ風使い』が製作されました。映画版と違って本作は短編とはいえ、ドラマが過不足なく込められた、しんみり泣ける傑作です。
第6巻の最後を飾る「さようなら、ドラえもん」は、涙なしでは読めない感動作です。それもそのはず、当初の予定では本作が漫画『ドラえもん』の最終回になるはずだったのです。これを名作と呼ばずして、なにを名作と呼ぶのでしょうか。
のび太とドラえもんの別離を描いた、最終回ならではのお話です。ドラえもんが未来へ帰らなくてはならない日は、なんの前触れもなく、とつぜん訪れました。二人で過ごす最後の夜、のび太は独り立ちする心意気を示します。
ドラえもんのために覚悟を決めたのび太の勇ましさに心打たれずにはいられません。人をなにより強くするのは、人を想う気持ちだと、のび太が教えてくれます。
いつのまにかお互いがかけがえのない存在になっていた二人の固い友情が涙を誘う、『ドラえもん』のマスターピースです。
大人になってから漫画『ドラえもん』を読み返して、「えっ⁉ 『ドラえもん』ってこんなに面白かったの⁉」と驚かされたのがこの「きこりの泉」です。もちろん子供のころだって楽しんでいたけれど、その記憶を超えてきたのです。
より面白く感じたのは、当時は自然に見過ごしていたブラックさやシニカルさが心に引っかかるようになったから。そう、漫画『ドラえもん』には、毒気がふんだんに(でもさりげなく)込められていました。
本作はその毒気が端的に表れた代表作です。イソップ寓話の『金の斧、銀の斧』を模したひみつ道具の“きこりの泉”をめぐるお話なのですが、こればかりはもうとにかく読んでもらうしかありません。
想像の斜め上いく展開に、笑いを禁じ得ない傑作です。あまりにも有名な回ですが、その名声にたがわぬ面白さを保証します。
当サイトの進捗状況に合わせて、ひとまず第6巻までのよりぬき(と「きこりの泉」)を紹介しました。
おそらくは「なんであれが入ってないの?」と思った方も多いことでしょう。だって漫画『ドラえもん』は傑作だらけですから。でもそれらを残らず紹介してたらきりがないので、あえて個人的な好みも入れつつ絞り込んだ次第です。
良くも悪くも不順さを許容できる大人になったからこそ楽しめる一面を持ち合わせた漫画『ドラえもん』は、ノスタルジー(もわるくないけど)抜きでも再読する価値のある名作です。
アニメ版とは一味も二味も違う、藤子・F・不二雄先生が直接手がけた原作漫画ならではの魅力をとおして、『ドラえもん』を「再発見」してもらえたら幸いです。