野比家の近所でロケ撮影していたアイドル歌手の丸井マリが行方をくらましました。
公園の土管の中で仮眠している彼女を見つけたドラえもんとのび太が話を聞くと、仕事が忙しすぎて逃げ出したと言うのです。時間に余裕のあるのび太たちが羨ましい、できれば代わりたいとさえ言いました。
そこでドラえもんが取り出したひみつ道具が“トッカエ・バー”です。
ドラえもんのトッカエ・バーは、人の体を取っ替える棒です。
これの端と端を二人でそれぞれつかむと、二人の体が取り替わる、つまり中身(意識・記憶・心・魂?)が入れ替わります。
入れ替わってから、さらにほかの人の体へ入れ替わるリレーも可能です。
原作エピソード「ぼく、マリちゃんだよ」では、のび太がアイドル歌手の丸井マリになって歌っても音痴のままでした。脳が物理的に入れ替わっているか否かはさておき、脳のつかさどる能力も入れ替わります。
大前提として、相手の了承を得ないでトッカエ・バーを使うのは悪行です。トッカエ・バーで入れ替わるなら、まずは相手を納得させなければなりません。
肉体は社会における個人を特定する唯一無二のIDです。その体を取り替えたなら、戸籍をはじめとする個人に付随するすべてを交換することになります。これは「人生の交換」を意味します。
「人生を交換した二人が二人とも幸せになる」なんて都合のいい話がはたしてあるのか……。
どちらか一人だけが得をするか、二人とも不幸になる組み合わせが大半でしょう。Win-Winとなる相手を見つけるのは困難です。
もちろん一時的に入れ替わるだけの使い道も考えられます。しかし相手の意思が介在する以上、こちらの思惑どおりにならないリスクがあるから、「一時的」程度の覚悟なら使わないほうが賢明です。
トッカエ・バーで体を取り替えた相手が元の体を返してくれるとは限りません。
もしも相手が致命的な持病を隠していたら? 過去に重大な犯罪を犯していていたら? 返す当てのない借金を負っていたら?
入れ替わりは、肉体に紐(ひも)づけられている負の遺産を押しつけられる危険と隣り合わせです。
誰かへの憧れが度を越して、「あの人の人生を自分のものにしたい」と願っている人もいることでしょう。トッカエ・バーがあれば、そんな欲望だってかなえられます。
入れ替わりを法的に証明することは不可能です。人生を奪われた人がどれだけ訴え出たって、ストーカー扱いされて終わりです。
「替え玉受験」なんていうしょぼい悪用もあります。
そして究極の悪用は、老いるたびに若い人の体を脈々と乗っ取っていくことです。
不老不死のためなら他者の犠牲をいとわない人なぞ掃いて捨てるほどいるでしょう。トッカエ・バーの存在は、けっして人に知られてはいけません。
自分の体を明け渡すからには、相手に気づかれずにトッカエ・バーを使うのは不可能です。
第三者はというと、「人が変わったみたい」と感じとる人はいても、そこから「本当に別人になった」という確信に至ることはまずないでしょう。
当事者が入れ替わりを秘密にしていれば、新しいパーソナリティーが周囲にだんだん浸透して、いずれは違和感も消えていきます。
両者合意のもとによる入れ替わりなら、秘匿性はおそらく守れます。
「人は死ぬと体重が21グラム減る。それが魂の重さだ」という話は科学的な根拠に欠けます。今のところ魂の存在はある種のおとぎ話です。それではトッカエ・バーによる「入れ替わり」とは、いったいなにが起こっているのでしょうか。
我々が感じている意識の正体とは? そして人はどこから来てどこへ行くのか……。
トッカエ・バーは、そんな永劫の謎を解き明かす鍵となるかもしれません。
物理的に脳を入れ替えていたとしても、脳移植は究極の臓器移植なのだから、それはそれで革命的です。
昭和なら『転校生』、平成なら『君の名は。』といった時代を代表するような青春映画がくしくも「入れ替わり」を題材にしています。それだけ人の想像をかきたてる題材なのでしょう。たぶん令和にもそんな傑作が現れるはずです。
ついてはトッカエ・バーは王道のひみつ道具だといっても過言ではありません。でも自分が入れ替わりたいかというと……。
というわけで、もしもドラえもんのひみつ道具を一つもらえるなら、トッカエ・バーの優先度は星
つ。人によって評価が割れそうなひみつ道具です。藤子・F・不二雄先生は『ドラえもん』の「ぼく、マリちゃんだよ」以外にも、『SF短編』シリーズの「換身」と「未来ドロボウ」で入れ替わりを題材にしています。
『SF短編』シリーズは青年誌などで発表していた読み切り漫画です。『ドラえもん』でも見え隠れしている藤子・F・不二雄先生のブラックな一面やシニカルさがより楽しめる貴重なシリーズになっています。