草野球でチームの足を引っ張ってジャイアンに怒られたのび太は、すっかりすねてしまいました。野球の練習をしようとドラえもんが誘っても耳を貸しません。しまいには「ジャイアンさえいなかったら」と言い出す始末です。
それを聞いたドラえもんは「ふうん……。じゃ、やってみる?」と、のび太に小さなスイッチを渡しました。それは未来の独裁者が作らせた、「どくさいスイッチ」という恐ろしいひみつ道具で――。
ドラえもんの「どくさいスイッチ」は、邪魔者をこの世から消し去るスイッチです。ターゲットを示す言葉(たとえば名前)を声に出しながらこのスイッチを押すと、相手はその瞬間にスッと跡形もなく消えてしまいます。
あだ名などの曖昧な言葉も有効です。複数の人が当てはまる場合は該当者がまとめて消えます。のび太が「だれもかれもきえちまえ」と言いながら「どくさいスイッチ」を押したときは、世界中の人がいなくなりました。
消えた人は初めからいなかったことになって、人々から忘れ去られます。その存在を覚えているのは、「どくさいスイッチ」を押した人ただひとりです。
じつは「邪魔者を消し去るひみつ道具」という触れ込みは真っ赤な嘘で、「どくさいスイッチ」の正体は「独裁的な人を懲らしめるためのひみつ道具」です。
邪魔者を消し始めると、歯止めがきかなくなる。そして自分の周りから次々と人を消して、最後には孤独しか残らなかった……。そんなバッドエンドに陥らせて、反省させるという策略です。
悪意から生まれたひみつ道具ではなく、善意から生まれたもの。となれば「どくさいスイッチ」は、実際には人を消していないと考えられます。
では本当はなにが起こっているのか。もっとも穏当な方法は、「もしもボックス」がそうであるように、パラレルワールドによる具現化でしょう。
「ターゲットを消すのではなく、ターゲットのいないパラレルワールドに転移する」という案配です。これなら相手にいっさい実害がありません。
「どくさいスイッチ」の仕組みは明かされていないため、実際のところは不明です。どんな仕組みであれ、「ターゲットに実害がないのはもとより一片の影響もない」のは確かでしょう。
独裁者気質な人に「どくさいスイッチ」を使わせて、本当に後悔と反省を促せるのでしょうか。
性根から独善的で頭の切れる人だったなら、自分に都合の良い世界を実現して、「我こそが正義!」という身勝手な確信を深めるだけに思えます。
「どくさいスイッチ」の正体をネタバレした上で使うなら、むしろ自分が独裁者(仮)になるほうが有用です。だってターゲットに実害はない(と推定される)し、いつでも元に戻せるのだから。
「誰それのいない世界」を体験すれば、その人が自分や社会にどんな影響を与えているかハッキリします。今後の人付き合いの指針となることでしょう。
複雑な事情で関係を切りたくても切れずに不幸になるケースも散見されます。最後の手段として、「どくさいスイッチ」でその人のいない世界にして、そのまま生涯を送る選択もあり得ます。
(「どくさいスイッチ」の仕組みがパラレルワールド方式だった場合は元の世界を捨てる形になるけれど、背に腹は代えられません)
さて、世界中の人をみんな消してしまったのび太は、一人の生活を満喫しようとしたものの、孤独にさいなまれて耐えられませんでした。
のび太でなくたって、世界で一人きりになってしまうのは辛いもの。けれど、いつでも元に戻せると知っていれば話は別です。
人が押し寄せる人気の美術展だって、登山者でごった返す休日の富士山や高尾山だって、誰にも邪魔されずに自分のペースで好きなように楽しめます。
そういったレジャーに限らずとも、社会の喧騒から逃れて一人になりたいときはさまざまな理由で訪れるものです。「どくさいスイッチ」が活躍する機会は意外と多いかもしれません。
「どくさいスイッチ」で人を消したり戻りたりし続けていると、独りよがりな選民思想に染まるばかりか、自分が人を取捨選択するに値する存在だと錯覚する恐れがあります。
なんとも中毒性が高そうなひみつ道具です。
ターゲットに実害がないなら、どう使っても一概に悪用とはいえません。
しいて難癖をつけるなら、特定の人がいない世界を身勝手に確認するのは、いささか行儀の悪い行いに思えます。
「どくさいスイッチ」による世界の変質を知覚できるのは、「どくさいスイッチ」の使用者と見届け人(1)だけです。その存在が部外者に知れることはないでしょう。
(1)のび太が「どくさいスイッチ」を使っている経過のすべてをドラえもんは把握していました。そういった見届け人の立場となる人物を指定する仕組みがあると推定されます。
ただし「どくさいスイッチ」がパラレルワールド方式だったなら、使っているあいだ使用者は元の世界からいなくなります。この世のどこを探しても見つからない、さながら「神隠し」です。使用期間が長引けば失踪騒ぎになるでしょう。
ドラえもんから「どくさいスイッチ」をもらうなら、これがどうやって人を消しているように見せかけているのか、確認しておくのが得策です。
「どくさいスイッチ」が道徳教育のためのひみつ道具である以上、社会に直接的な影響が及ばない仕組みになっているのは間違いありません。
本当に独裁者として日本に変革を起こしたいなら、「ポータブル国会」のほうがあつらえ向きです。
のび太としずかちゃんの結婚式を明日に控えた夜、しずかちゃんのパパは娘の夫となるのび太をこう評しました。
「のび太君を選んだきみの判断は正しかったと思うよ」
てんとう虫コミックス『ドラえもん』第25巻「のび太の結婚前夜」より
「あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね」
「どくさいスイッチ」で人々を消したことをのび太が反省できたのは、心根が優しい人間だからです。独裁者になるようなタイプはこれしきで反省なんかしやしないのは歴史を鑑みれば明白です。
独裁的な人を懲らしめてやろうという目論見は残念ながらかなわないでしょう。本来の目的には「どくさいスイッチ」は力不足。でも「人払い」を目的とするなら抜群に使えます。
やかましいな……ポチッ!
今あの人に会いたくないな……ポチッ!
そこどいてくれないかな……ポチッ!
邪魔者をサクッと一時的に消せてこりゃ便利! って、おや? 独裁者気質を戒めるどころか、かえって増長させているような……。便利である反面、行動に引っ張られて思想がゆがんでしまう危うさもあります。
というわけで、もしもドラえもんのひみつ道具を一つもらえるなら、「どくさいスイッチ」の優先度は星
つです。